自分を許してあげる

朝から晩まで試作品を作っていると、

作業をしながらいろんなことを考えてしまいます。

すっかり忘れていた昔のことを、

いきなり何の前触れもなく思いだしたりします。

中には、恥じ入る程ひどく反省する思い出もあります。

ルカによる福音書に放蕩息子の譬え話というのが出て来ます。

或る人に2人の息子がいました。

ある日のこと、弟が父親に向かって、

相続することになる筈の財産を

今すぐに分けてほしいとお願いします。

父親は、財産を2人の息子に分け与えました。

弟はその財産をすぐにお金に

換えると遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを

尽くし財産を無駄遣いし、

食べるものにも困るようになりました。

故郷では大勢の雇い人がいて、

有り余るほどの食料が有ったのに、

自分は今ここで飢え死にしそうだと、

自分の行いを心から悔い改め、

父のもとに帰り、過ちを謝り、

使用人の一人にでもしてもらおうと決心します。

父の家が近づくと、父は遠くにいる

変わり果てた息子に気付き、

走り寄って抱き締めます。

弟は、『お父さん、私は天に対しても、

お父さんに対しても罪を犯しました。

もう息子と呼ばれる資格も有りません。

ただ、使用人として私を使って下さい。』

と言いました。

父親は召使たちに命じて、

息子に一番良い服を持って来て着せ、

子牛を屠って料理をこしらえ、

みんなで祝うように計らいました。

外から帰ってきた兄が家に近づくと、

家から宴の音が聞こえてきました。

何事かを召使に尋ねたところ、

『弟君が帰ってこられたので、

お喜びになったご主人様の命令で

祝いの宴を開いています。』

ということです。

兄はそれを聞いて怒り、真面目に父親の

下で働いて来た自分と比較して、

放蕩の限りを尽くして帰ってきた弟のために

祝宴を開いてやる父親に対して不満を言いました。

すると父親は、『お前はいつも私と一緒だ。

弟は死んだと思っていたのに戻ってきたのだ。

居なくなっていたのに見つかったのだ。

祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか。』

と言いました。

カトリック信者だけでなく、多くの人が知っている有名なお話で、

教会のミサでも神父様のお説教によく出て来るお話です。

この弟は人間で、父親は神様をあらわします。

人間は過ちを犯してしまいますが、

神様は悔い改める人間を

咎めもせずに喜んで迎え入れてくれます。

過ちに気付いて苦しむのは

過ちを犯した本人の心ですが、

その気付いた過ちを心から悔いると、

神様はその過ちを赦して下さいます。

随分悪いことしてしまったと

反省することがありますが、

赦しがあると感じることで、

勝手に慰めを得たような楽な気持ちになります。

都合良い解釈かも知れませんが、

自分を責めるより自分を

許してあげるのが、反省している自分

に対して取るべき対応だと感じます。

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