『聖書』の創世記にアブラハムという人が登場します。

彼にはサラという妻がいましたが、2人の間には子供がいませんでした。

アブラハムは老齢になってから、

あなたは1年後に男の子を授けられると神様から告げられます。

妻のサラは女性の月のものがとうに終わっており、

お告げを聞いて苦笑しますが、

その後身ごもり、言葉のとおり1年後に男の子を授かります。

アブラハムもサラもこの子を大切に育てますが、

ある日神様からその子を生贄として、祭壇で捧げる様にいわれます。

『聖書』にはアブラハムの心の葛藤は描かれておらず、

淡々とその言葉に従う姿が記載されているだけですが、

その静けさが彼の苦悩を伝えてきます。

アブラハムは息子のイサクとともに祭壇へ赴き、

イサクを手にかけようとします。

そこへ神様の使いが現れ、あなたが神の言葉に聞き従うことが良く分かったから、

イサクに手をかけてはならないと止められます。

アブラハムは、子供のイサクを授かれたのも神様の恵みで、

神様はこの子に手をかけてもまた甦らせてくれると考えたのかもしれません。

神様はそんなアブラハムを先祖代々の土地から導き出して、

新しい土地(カナン)を与えそこで星の数ほど、

砂浜の砂の数ほどアブラハムの子孫を増やすと約束しました。

目には見えない神様(『聖書』には、モーセだけは神様と顔と顔を合わせたと書かれてます)

をここまで信頼しているアブラハムは、すごい心をもっていたのです。

見えないものは信じられない、これが普通の反応です。

『聖書』には、教えを伝えるイエス様に向かって、

あなたが何かしるし(奇跡)を目の前で見せてくれたら、

あなたを神の子として信じようと

奇跡(見える形での証拠)を求める当時の人々の姿が記載されています。

内側に向き合うとか、内面を見つめるとかよく言いますが、

何が内側に向くのか、何が内面を見るのかというと、心がやるのです。

心が一人称の様に表現されていますが、肉体はただあるだけで、

人間を司っているのは全て心なのです。

目には見えないけど、心がすべてを握ってるのです。

心=魂と言っても良いですが、神様も聖霊ですから、目には見えません。

モノでも肉体でも、いずれは跡形もなくなくなりますが、

初めから目には見えない、カタチもない心=魂=霊はなくなることが有りません。

僕は斉藤一人さんが好きで、殆どすべての書籍

(お弟子さんが書いたものも読みます)を読んでいますが、

一人さんは、魂は何度も何度も生まれ変わって成長すると言っています。

生まれ変わりがあるかどうか、僕はその辺は良く分かりませんが・・・

(クリスチャンの僕としては、人生が終わればそのまま天国にいる方を望みます)。

普通は目に見えるものをリアルとして捉え、心がそちらに向かいます。

でも目に見えるものはただそれだけで、ただカタチのみ。

魂が入っているわけでもなく、心があるわけでもないのです。

見えない存在が重要なのです。

人は死んじゃうと、肉の塊だけが横たわりますね。

霊が抜けてしまったそこには、かつてのその人はいません。

重要なのは見えない存在です。そしてそのことを感じ取れる心。

心がホント重要です。

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